コラムもどき

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自転車ロードレースの最高峰の一つ「ジロ・デ・イタリア」が行われているこの3週間、1日に3~4時間TV中継されるその“高容量”を消費するのになかなかリアルタイムで追っていけず、かといって見逃したくはないため録画をするのですが、その容量は日々蓄積され益々リアルタイムに追いつくのが遠ざかっていきます(汗)。

なので、レース結果を知ってしまわない様自転車ロードレースの情報を遮断するわけなのですが、幸い、日本では自転車ロードレースの人気が低いため(低いことが幸いなのではなく)、自ら情報を探しに行かなければたまたま結果を知ってしまうなんてことは滅多に起こらず助かっています。

しかし、ツイッターで自分がフォローしている人の中には自転車ロードレースの結果をつぶやいていたりもするので、このツイッターはしばらく封印せざるをえなくなりました。

ツイッターは自らはつぶやかなくてもタイムラインはしょっちゅうチェックしているので、しばらく見ないとなると不便に感じると思っていたのですが、これが意外と見なければ見ないでそうでもありませんでした。

それで分かったことが、ネットで手軽に情報が得られる様になった近年、口がさみしいから煙草を吸うかのごとく、日々無意識のうちに無駄に大量の”情報”を消費しているだけな所もあるのだなと。

要するに、気になる(と思い込んでいる)それらの情報って、本当に必要なのか考えてみると、意外とそうでもなかったりするものもあるのかなと。

じゃあなんで人は毎日そんな大量に情報を欲しがるのかというと、先程「口がさみしいから煙草を吸う」と喩えましたが、何か気持ちの隙間の様なもの(というか隙間の気持ち)を情報で埋めているからなのかもしれません。そういう意味ではその情報は必要なもので役に立っているのかもしれませんが、じゃあ情報が少なかった昔はどうやってその辺の隙間を満たしていたのか、思い出せません。

それと、玉石混淆なネットの情報を常にウォッチしていないと、いつ“玉”に当たるか分からないから、それを逃さないためにひたすら消費しているというのもありますね。

いずれにせよ、無駄な情報に埋もれるななどと言うつもりはありませんが、知りたいという気持ちが苦痛に思えてきたり、本当に欲しい情報が分からなくなってきたら、普段消費している大量の情報を一度見直してみる、もしくは距離を置いてみるのもいいのかもしれませんね。



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>>検索結果 上位の信憑性




先日、渋谷のUPLINK FACTORYにて「男の会~男の子の悩みに、女の子が本音で答えます。~」という、編集者、ライター、ウェブデザイナー等、文化系女子達が男性のことについてフリートークしたり、男子からの質問に答えていくという内容のトークイベントに行って来ました。

自分みたいないい歳したオッサンにもなれば、今更若い女性達の理想の男性話を聴いた所で萌えたりはしないんだけれど、じゃあなぜ今回のトークイベントに興味があったのかというと、ゲストが斉藤哲也さんだったってこともありますが、前から気になっていた事が一つあって、それだけが聞きたくて足を運んだんです。

その気になる事とは以下の内容です。

「男性は、街で通りすがりの時、前から来る女性の顔をつい確認してしまう習性があると思うのですが、
おそらくこれって、昔ながらの、子孫を残すための条件反射が遺伝子として組み込まれているからなのではないのかと勝手に思っていますが、その時女性は、見られる側としてどういう気持ちなのでしょうか?また、何歳頃から、男の人の視線が女を見る目になったと感じたのでしょうか?」


なんかこれだとloosecubeが単なるエロオヤジなのかと思われるかもしれませんが、女性への興味は人並み程度だと自分では思っていますし、これは別に通りすがりの女性と仲良くなりたいとかそういうことではなく、ただ単に「確認」だけしてしまうんです。
おそらくこれって、例えばとある部屋にいた時後ろからドアを開ける音がして人の気配を感じた時とか、街で大きな音が鳴った時とかに振り向いてしまうのと同じ「条件反射」なんだと思うんです。
じゃあ、こんなことするのは自分だけなのかどうか友人や職場の身近な男性に訊いてみたら、その状況になってみないと分からないという人以外はやっぱり全員「確認する」と答えました。ためしに、これを読んでいる方で身近な男の知人に聞いてみて下さい。きっと「そう言われてみれば確認する」と答えると思いますよ。

そして、逆に身近な女性に、上記の質問をしてみたところ、
「子供の頃から近視なのでそのような自覚が無い」とか、
「胸が大きいので胸への視線を感じることはある」といった方の意見はありましたが、
おおむね、「男性だろうが女性だろうが、通りすがる人の事をそもそも気にしていない」
というのが答えでした。

自分の憶測は、その時女性の気持ちは、物心ついた頃から男達に毎回毎回見られてきてウンザリしているのではないかと思っていたので、どうやらそれは的外れの様でした。

というわけで、今回のトークイベントを知り、これを機会に他の女性の意見も聞いてみたいとメールで質問してみたんです。

そうしたら、この質問は、読まれることはありませんでした…(泣)

これだけが知りたくて足を運んだのに…

このトークイベントの主旨的には、自分の質問は的外れだったのでしょうか…

もうそんなわけで消化不良感が残ったので、答えてもらえなかったこの質問をこのブログでも訊いてみたくなりました。

どなたか女性の方で、この質問に答えていただける方はいないでしょうか?

…っていうか、このブログがそもそも知り合い以外の女性が読んでいる確率は極めて低いとは思うのですが…
なので、女性の知人に聞いた男性の方のコメントでもいいです。

ところで今回のトークイベント、自分は後ろの席で聞いていたのですが、
隣りでスタッフがトークの内容を即座にノートPCで文字に起こし、今流行りの「Twitter」にアップしていて、まさにtsudaってる所を目の当たりにしました。

その「男の子の会~男の子の悩みに、女の子が本音で答えます。~」のTwitterは、こちらです。

http://twitter.com/otokonokonokai

それと、当日ドリンクをこぼしてしまって、周りの方に迷惑をかけてしまいました。ごめんなさい。
数ヶ月前からサイドバーに貼り付けたブログパーツのおかげで当ブログのどの記事に多く関心があるのかある程度把握出来る様になったのですが(ランクによっては本当に読まれているのか?って思う様なあやしさも多少感じますが)、これを見ていたら、なんでマサカーの記事の人気が高いんだろうと疑問に思い、よそではマサカーのことがどう書かれているのか試しにGoogleで検索してみたんですけれど、そうしたら自分のブログが一番にヒットしたんですね。またこれとは別に、自分が調べたいと思うキーワードで検索をかけた時に、自分がかつてそのキーワードで書いたことのある記事が上位に引っ掛かってくるなんてこともあったりします。

これら上位に載ってしまう理由のほとんどは、他であまり話題にされないネタ(キーワード)のためだと理解は出来るのですが、他の方が書いた同じテーマの記事の方が明らかに質が高くて参考になるのに、自分の方がそれよりも上位に検索に引っ掛かっているのを見るとなんか違うよなぁって思うことがあります。そりゃぁ、上位に載れば多くの方に読まれる機会に恵まれるわけだから嬉しいですけれど。でも例えば、「トニー・マンスフィールド」でググると割と上位の方に引っ掛かってくる自分の記事なんか、トニーのことよりもトニー(NEW MUSIK)が好きな自分のことばかり書いてあって参考にならないし。

いや、決して自分はいつも気楽な気持ちはあってもいいかげんな気持ちでブログを書いているつもりはありません。公に読まれるんだから、読んで損したと思われる様なブログにはなるべくしたくないと心掛けてはいます。しかし自分は物書きのプロではありませんから、どうしても拙さは隠しきれません。だから同じ話題であれば質の高いプロや文章の上手な方の記事を優先的に読まれるべきなのに、キーワード検索の結果で上位から順に読もうとすると必ずしもそうなるとは限りません。但し、マスコミや文章表現の上手い人達による情報操作を鵜呑みにしてしまう危険性だってあるわけだから、一概に優先順位がどうこうとは言い切れないんですけれど。

いずれにせよ、キーワード検索で何かを調べようとする場合、検索結果が信憑性の高さを基準に順に表示されているわけではないので、上位だけを読めば深く理解出来たことには必ずしもならないことだけは確かですよね。多くの情報が容易に得られる(もしくは発信出来る)様になった現在、その中から真なる情報を見極める力が個人に求められる。今に始まったことではありませんが。


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>>情報の消費



自分はよくらくがきで職場にいる人の似顔絵を書いたりして(ちなみに、ウチの4コマまんがに出てくる有名人以外のキャラクターのほとんどはその似顔絵だったりします)、その時に「誰だか判る?」っていろんな人に見てもらうんだけれど、似てるって言う人もいれば、似てないって言う人もいたりで、同じ一つの似顔絵でも反応はいろいろ。これって例えば、Aは鼻に特徴があるなと思ってそこを特徴的に書いてみたんだけれど、見る人によっては、Aに対して鼻よりも眉毛に特徴的な印象を持っていたりするので、その絵を見ても似てるとは思えなかったりする。これと似た事で「あの人って、あの芸能人に似ているよね」「ええ~どこが~それだったらこっちの芸能人の方が似てなくない?」「ええ~そうか~」ってな会話。こういう時に思うのが、自分に見える対象物が他の人にはどう見えるのか一回その人に乗り移ってみたいな~って(笑)。要するに、自分に見えているものが、他の人にも同じふうに見えているとは限らない、いや、同じものが見えてはいるんだけれど、それによって頭の中で描かれるイメージは必ずしも同じではないってことですよね。それは人によって経験や環境や立場とかいろんな違いがから生じるものなんでしょうけれど。だからいろんな人の意見を聞くのって面白いんだと。

いや、何で今更こんな当たり前の話をしだしたのかっていうと、同じ「イメージの違い」ってことで、この前ドラムの練習をしている時に、改めてイメージって大事なんだなぁって思ったわけですよ。
っていうのは、ある一つのドラムパターンをずっと繰り返し叩く中、中途半端な所でフィルを入れることで、裏が表の様に、まるで違うフレーズを叩いているかの様に聞こえるドラムパターンを練習していた時に、それまでモタつかなかったはずの右足が、裏を表として頭の中でカウントし始めた途端にモタついてうまく叩けなかったんです。実際は同じフレーズを叩いているはずなのに。

この様に、頭の中で描いているイメージを変えると、出来ることが出来なくなってしまう場合がある。これって逆に言えば、ちょっと出来なかったことでも、イメージ(視点)を変えれば出来る場合だってあるってことですよね。「イメージトレーニング」っていう言葉がある様に、何もこれは楽器の演奏に限らず、スポーツや、その他仕事なんかにも当てはまることなんですけれど。

>>異なるイメージ~続き



好きな音楽を紹介する時、自分なりに感じたことを文章にしてブログに載せているわけなのですが、それで以前自分が思っていたことは、自分が聴いて感じたことを書いている内容って、もしかしたら間違った解釈なのではないだろうか、カン違いをブログに晒して恥をかいてしまっているのではないだろうかという不安でした。というのも、作品に対して外野がどんなに熱く語った所で、創った本人の一言で、それは全て無効になってしまうと思っていたからなんです。以前にオリジナルアルバムの初回盤には、アーティスト本人の解説は添えない方がいいと言ったことがあるのも、そういう本人による強い言葉の影響力が理由からでした。

そしてその後、そんな気持ちから解消させてくれる言葉を、批評家 佐々木敦さんのとあるインタビューからみつけました。

佐々木敦の名前は、昔から、フレッド・フリスTORTOISE等、好きなアーティストのCDを手に取ると、解説者としてよく目にしていたので、そのうち彼の名前を見付けることが、解説を読む楽しみの一つになっていました。当ブログを好んで読んでいただいているみなさんならば、きっと佐々木さんの解説は読んだことがあるのではないでしょうか。そんな彼の解説の中で特に気に入っているのが、マーク・リボーの「ドント・ブレイム・ミー」で、冒頭に

「マーク・リボーという人ほど、その魅力を言葉で語りにくいミュージシャンもいない」

という言葉で始まるのですが、最後に

「本作は実に聴き応えのある、非凡なアルバムである。その証拠に、言葉で語りにくいといいながらも、こんなに言葉を費やしてしまった。」

で締め括るんですね。これを読んで自分は、解説そのものに作品的なものを感じました。それまで自分は、解説そのものに作品性の様なものを求めるのなんてナンセンスだし、そんなもの解説としては機能しないと思っていたのですが、ここでそれが覆されました。まあ、佐々木さん本人はそんなつもりで書いたのではないでしょうし、こっちの勝手なカン違いなのかもしれないんですけれど。

そんな佐々木さんの言葉が、自分にとって説得力を持ってきている中、彼がサブパーソナリティとしても参加しているTBSラジオの番組「文化系トークラジオLife」のポッドキャストの一部で、彼がおススメする本を紹介している中に、こんなコメントがあったんです。

「批評家としてね、いろんなものを批評してきた立場として常に思うのは、物事を作った人が、作ったものに対して何を自分がしたのかを本当に全部解っているわけじゃないと思うわけ。本人自身がやったのに、本人がなぜそれをやったのか解ってない、あるいは説明しきれない部分ていうのを説明してあげるのが、批評の役割の一つだと思うわけ。」

「(気になる作者に)インタビューする機会があったらしてみたいと思うし、いろいろ訊いてみたいけれど、それで(自分にとって)何かが全部解るって思っていなくって、知りたいのは、自分の納得だから、だから、作った人が、『いやいや違う』って言っても、自分の納得の中での整合性のある、自分自身が正解だと思える答えを見付け出すためのことっていうのをやりたいと思っているから。それは、単に作った人が『こう言うつもりで作りました』っていうことを聞くだけじゃやっぱりね果たせないんですよね。そこでやっぱり批評ってものの入り込む余地があるというか…」


自分は決して一緒になって批評家気取りになっているつもりもありませんし、佐々木さんもここで、我々の様な一般人がブログなどで語っていることを同じこととして言及しているわけではないことは充分承知なのですが、これを聴いて納得させられたのは、作者本人の言葉が必ずしも全てではないっていう所で、多分、作者の方で全て解りきって生まれた作品なんて、魅力のないものなんだろうなと。そうだとするならば、自分が聴いて感じたことを書いているのも、それも一つの解釈として、アリでいいんじゃないかと。ある意味心強い言葉をいただいた様な気になりました。これも都合のいい勝手な解釈なのかもしれませんが。そもそも作品って、店頭に並んだ時点で作り手の手元を離れ、作り手だけのものではなくなり(権利とかの意味じゃなくて)、聴き手それぞれの想いなどもそこに集積されていくものだと思いますし。

勿論、技術的やデータ的なことを盛り込んで作品を語る場合、そこは正確でなければいけないのは当然なのですが。

ここで紹介した佐々木さんのコメントは、現在でも「文化系トークラジオLife」のホームページからポッドキャストで聴くことが出来ます。ここにリンクを貼っておきますので、興味のある方は聴いてみてください。

http://www.tbsradio.jp/life/cat210/

このページの、「Life番外編~佐々木さんインタビューpart2」の終わりの方で語っています。
どうでもいい話なんですけれど、ついでに言うと、ここでの聞き手の黒幕はせがわ氏の声が、今堀恒雄氏の声にソックリです。

ちなみに今堀さんの声がこちらで聴けます。

そして、その「文化系トークラジオLife」なのですが、次回の放送は、6月22日(日)の25時30分~28時(6月23日(月)午前1時30分~朝4時)で、テーマは「秋葉原無差別殺傷事件」です。当日パソコンからストリーミングで放送も聴けますし、放送された内容は後日ポッドキャストでも配信される予定です。あの事件については、みなさんもいろいろ考えさせられることがあると思います。興味のある方は、こちらもどうぞ。

http://www.tbsradio.jp/life/




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>>集中力が散漫





・お気に入りのお店

・お気に入りのバンド

・お気に入りの番組

・お気に入りの食べ物

etc...

だから、今を楽しまないと。

これは、マイミクの日記に自分がコメントしたものなのですが、
ここで補足をすると、
何も、「今さえ良ければ~」とか、「どうせ無くなるんだから~」の様なナガティブな意味とかで言っているのではなくて、
人は生きていれば成長していくものだし、成長するには変化が伴うものだし、いろいろなものが無くなっていくってことは、新しいものが生まれていくことでもあるし、人が生きている(成長の)証でもあると思うんです。
変わらないでいく成長というのも、まあ、他方ではありますが。

「いつか行けば…」「いつか観れば…」とか思っているんだったら、今そうした方がいいなと。

「今は乗り気じゃない」って思っていたとすれば、それは、「いつまでもそれがある」って、気持ちのどこかにあるからなんだと思います。

経済的理由や、目的も無いのに利用出来ない等は、しょうがないですけれど。

いつでも会えると思っている友人だって、いつ遠くへ越してしまうか分らないんだから、本当はもっと遊びたいんだよね…。

あ、そういえば、HAS/YMOのライブDVD、まだ買ってないや。
今更言うのもなんだけれど、インターネットの普及で、昔に比べて知りたい情報がより早く、多く、詳しく得る様になり、一般の我々が手軽に書き込める掲示板、SNS、そしてこのブログでは、少数が必要としている貴重な情報までも交換し合える様に現在なっています。人間って、基本的には「教えたがり屋」だから、どこそこで起こった/得た情報を次々に書き込み/アップし、価値を分かち合うわけです。

そんな手軽なこれらのツール。便利になったと思う反面、昔より窮屈になったなと思う事もあります。
それはこの前、とあるトークイベントに行った時でした。
昔だったら、放送などのメディアでは語れないオフレコに近いネタやぶっちゃけた話が出来たのがトークイベントだったと思うのですが、今やちょっとした事でもネットに書かれてしまう時代。唯一開放的な場であったここでもヘタな事はもはや言えなくなってしまっているのです。自分が聴きに行った事のあるトークイベントで、コメンテーターが「今日の事はネットに書き込まない様に」と釘を刺していたのをこれまで何度か見た事があります。それでも書かれてしまうわけなのですが…。

これがもしプロのライターなどに書かれるのであれば、(叩く事が目的でなければ)その辺を配慮するからまだいいと思うんですよ。しかし我々の様な素人の場合、言った事そのままを書くのがほとんどだからタチが悪いんです。情報の自由とはいえ、素人が書く場合でもある程度の配慮は必要だと思うんです。

どういう事かというと、そのトークイベントで、とある女性アイドルグループの話題になったんですね。ゲストコメンテーターがそのアイドルの熱烈なファンで、そこにもう一人のゲストコメンテーターが彼に「そのアイドルグループの中で誰が好みなの?」と執拗に絡んできたんです。まあ、対象が女性だと野郎はそういう話が好きですし、その場の雰囲気が盛り上がるのが分っていてそのコメンテーターも訊き始めたと思うから、ここまでで済んでいれば納得がいくのですが、トークが繰り広げられていくうちに、ファンのコメンテーターが、アイドルグループの中の一人を説明する際「一番冴えないコ」って言ったんです。それは明らかに前後の話の流れで「努力してもどうにもならない所を指摘」しての発言でした。結果的ですが、先の別のコメンテーターによる「煽り」が、彼に口を滑らせる発端を作ってしまっていたのです。

これに対して自分は「それはマズいだろう」と思いました。ファンと自称する人が、ファンの対象となるグループの一人をつかまえて、努力してもどうにもならない所に対してネガティヴな発言を、公の場でするものではないと思うからです。飲み屋の席での世間話だったら分るんです。大袈裟かもしれませんが、たとえそのコ自体のファンじゃないとしても、その一言がネットで拡がり、万が一本人の耳に届いたとして、精神的に落ち込ませ、グループ解散の危機にまで追い込んでしまう可能性だって全く無いとは言い切れません。それくらい、今のネットの影響力は警戒する必要があると思います。これがもしそのグループのファンでない人であれば、「そんな事で潰れる様じゃ、元々向いていなかったんだよ」で済むかもしれませんが、ファンがそれをやってはいけません。逆に彼女達を守らなければ。

で、これがまたこのイベントを聴きにきていた人が自身のブログでその発言をそのまま書いていたんですよ。でもこれはもはやしょうがないなと。その人がそのグループのファンでもなんでもなければ「なんでそんな事まで気を遣ってブログ書かなきゃいけないんだ」になるからです。ただ自分だったら、そのグループのファンだろうがなかろうが、そんな事までブログに書こうとは思いませんけれど。

事細かくブログに書き連ねるは、価値の分る者の間で価値を分かち合うため、現場の雰囲気を少しでも感じてもらいたいがための想いも込められやしましょう。されど、素人の書く事が故、誤った解釈に導く恐れがそこにはあるやもしれません。ならば素人とて、公の場に書くは、慎重を期すが心得るのが肝要かと。いやいや、気楽に書くのを良からぬ事と申しているのではございませぬ。車を運転するのに、安全運転を心掛けるのと同じ事にございまする。

「風林火山」を観ていたら、言葉が変になりもうした…。言い回しがデタラメである事は承知の上、ツッコミはご無用にございまする。

みなさん、よいお年を。
極端なことを言えば、例えば女装だって(ちなみに自分は女装は趣味ではありません)。

そういう人達を拒絶する事は、ある種人種差別にも繋がると思うし。

別に価値を共有しろって言うんじゃなくて、そういう人もいるっていう“共存”です。

人種差別で思い出したけれど、自分が子供の頃「スターウォーズ」を見て、もしチューバッカが実在したら、怖くて近寄りたくないと思っていました。でも物語の中では、他の登場人物と不自然なく共存しているんですね。「機動戦士ガンダム」だって、(地球で云う所の)多国籍の人種が普通に共存しているんです。これらを見て、近未来というのは、人種差別を超えた世界なんだと、子供ながらになんとなく思っていました。思想差別はあるのかもしれないけれど。

話を戻します。

「人に迷惑をかけなければ…」と注釈していますが、もう一つ注釈があります。それは「社会に適応出来るのであれば」です。
ここでいう「社会に適応」は、夢中になれるものが社会に適応出来るのかでも、社会のシステムに組み込まれる事を言っているのでもなく、他者との共存で育まれる社会の事です。人は一人では生きられないからです。だからイヤなヤツとも共存しなければならない。辛い時もあるけれど。
振り返ってみると、今まで思う事はあってもなかなか行動に出なかった事が、ブログのネタになるからという理由で実行にまで至ったというのもありました。

サッカー観戦だって、TVで観れればいいやって思っていた試合も、実際に足を運んで会場で観る様にもなったし、買おうかどうか迷っていたストライダも買ってしまったし、子供の頃からいつか行こうと思っていてなかなか行かなかった小諸もやっと行ってこられたし。

「ブログのネタのため…」なんて、これはある意味「不純な動機」とも言えますが、自分は、人に迷惑をかけないのであれば、動機は不純でも全然構わないと思っています。
それがやがて本物になる事だってあると思いますし。

これが例えば、ニワカサポーターのせいで昔からの真のサポーターがチケットが取りにくくなってしまうから、人に迷惑をかけている事になるだろうという人がもしいるとするならば、それはその人の勝手な言いぐさだと思います。
多くの人が注目する事により、より多くの情報が得られる事にもなるし、規模拡大や競争など質の向上にも繋がるから、真のサポーターにとっても良い事だと思うんです。静かに愉しみたい人には気の毒なのかもしれませんが。ニワカのマナーがどうのこうの言うのはまた別の話ですよ。念のため。

また、コメントをいただいた方のアドバイスで実際に行動に出た事もありました。
ライブを観るはしごをしようかどうか迷っている時に、うんですよんさんからアドバイスを受けて>行動に出たのがそれでした。ブログを通じての影響力というものをここで感じました。

ブログを初めて何が変わったか、(1)では「意識して考える様になった」とお話しましたが、もう1つは、「実行に繋がる機会が増えた」です。
実際振り返ってみて、やっぱり行動に出て良かったと思えるものばかりでした。
こうやって考えると、ブログって、自分にとっていろいろためになっている事をつくづく感じます。

というわけで、自分のブログを振り返ってみました。

とりあえず来年は1/19に恵比寿のリキッドルームで行われる、前から観たいと思っていたtoeのライブに行ってきます(特に柏倉のドラムが観たい)。あれだけのクラスのバンドがリキッドルームで今時2千円だなんて、良心的ですよね。

読んでいただいた方、コメントを寄せてくれた方、今年もありがとうございました。

皆様来年もよいお年を。
今年も残りあと僅かになってきました。

なので今日は、今年を振り返る…というより、自分にとってのブログをここで一度振り返りたいと思います。

自分がブログをやってから何が変わったかというと、
考える時間が多くなりました。

いや、日々その都度考えながら人は行動しているわけですから、時間そのものは増えたわけではありませんので、前よりも意識して考える様になりましたですね。

音楽を聴いて気持ち良かったら、なんでそれが気持ちいいのか、どこが良かったのか…考える事で気が付かなかった事が見えてきたりもしました。

「音楽は言葉では表現出来ない」とも言われますので、本当は無理に言葉を見付けるものではないのかもしれません。

それでも言葉を見付けようとするのはなぜなんでしょう?
そうしないと、ブログが続かないから。
まあ、それもありますが…

以前自分がこのブログで映画の話をしない理由の1つに、観ながら言葉を見付けようとしてしまい、映画そのものが楽しめなくなってしまうからと言った事があります。
なのに音楽がそうならないのは、映画よりも受ける情報量が少ないため、“理解する(把握する)”よりも“感じる”に専念出来るからなんだと思います。

「言葉は何々」「言葉は…」と、一人一人が語っていくTVCMがありましたよね(コレ→http://www.youtube.com/watch?v=eAbVx5y2UFs)。
あのCM自体がどうなのかは別として、あれを見て、自分にとって言葉ってなんだろう?って考えた事があったんです。
それで出た答えが「確認」でした。「言葉は確認」。

クサい例えで言うと、言葉をいくつも見付ける事で、生きている事を確認している。言葉で相手に気持ちを伝えるのも確認。言葉で愛を交わすのも確認。

だから、音楽も、ここでは自分の耳で聴いて感じた“確認”を紹介している事になります。

とにかく、ブログを始めてから考える事を前よりも意識する様にはなりましたが、だからといってあまり考え過ぎるのも考えものなので、気をつけたいと思います。

あ、あと「映画」と「TVCM」で思い出したのでついでに話をすると、昔、映画専門チャンネルのCMで、映画とは何か?で一人一人が答えていくやつがありましたよね。あれで自分が共感したのは「旅」と「生きるヒント」でした。
デヴィッド・リンチの映画が生きるヒントになるのかは疑問ですが(笑)。
昨日、手塚眞氏の著書「ヴィジュアル時代の発想法~直感をいかす技術」を話に取り上げたのをきっかけに、この本をまた読み返しているのですが、著者の人柄が伺える、気持ちのおおらかさを感じる文の綴り方に改めて好感が持てます。

ブログをやられている方々の文章には、気の強さを感じさせる事が多くある様に思います。実際、皆さんが気の強い性格なのかどうかは判りませんが、それは自身の放つコトバに、自信と責任を持っているからだと言えます。公に読まれる場に自信のない事を書いていては、読まれる方々に失礼だからとも言えるでしょう。
また、文末に「~だ」「~である」を用いている文が多いのも、気が強く思えてしまう要因かもしれません。中には「~だ」「~である」を用いる事により主張を強く見せ、自己のコトバを守っている様にも思えます。
自分の場合、文が長かったり、カッコが多くて読みにくかったりでお判りだとは思いますが(すいません)、文章を書くのがヘタクソなため、「~だ」「~である」を用いてしまうと、かなりカン違いな文章になりかねないので、言葉遣いに気を付ける意味で、「ですます調」を用いる事にしています。これもある意味、自己のコトバを守るためとも言えます。ですます調でものを語ると、主張も和らぎますね。普段の自分を知っている友人達からしてみれば、このブログを読むと、ずいぶん違和感を感じているのではと思いますが。

手塚氏もこの本では「ですます調」で自身のコトバを綴っています。
「ですます調」は主張が和らぐと言いましたが、説得力に欠けるというわけではありません。これも使い方なのだと思います。「~だ」「~である」も使い方によっては威圧感をあたえ、反って説得力を欠いてしまう事だってあると思いますし。
「~です」「~ます」も使い方によっては、堅苦しくて窮屈に思えてしまう事もあるのですが、手塚氏はここで、ちょっといい話でも聞かせてくれるかの様な言葉遣いで誘い出してくれているので、リラックスして耳(目)を傾ける事が出来ます。様々な学者、思想家の話を例に盛り込んでもいるのですが、彼の言葉の使い方のやさしさから堅苦しさを感じさせません。

考えてみると、そんな手塚氏の様な紳士さを感じさせる文章に、自分は無意識に憧れを持ち「ですます調」を用いていたのかも…と、今回読み返してみて思いました。自分の場合、「~と思います」が多く、小学生の作文みたいで、似ても似つかないのが悲しい所ですが(苦笑)
先々月にストライダを連れて小諸に行った話をしましたが、そこで泊まったホテルのルームで、風呂上がりにTVを点けてみたら、「失敗学」なるものが放送されていて、つい見入ってしまいました。
その番組は、これまでメディアで報道されてきた様々な失敗により起こった事故、事件を取り上げ、なぜその様な失敗が起こったのかを検証し、同じ失敗を繰り返さないためにはどうすればいいのかを考察する内容でした。
そこで講師は、「失敗に対して責任追及ばかりが報道されがちだが、それだけではなく、どうしてその様な失敗が起きたのかの“原因究明”にも目を向ける事が、再発防止につながる」と唱えていました。
この話を聴いて自分は、小山田いくの作品で感じる事のある、「誰が犯人なのか」よりも、「なぜその様な事が起きたのか」を重点にしたストーリーと、同じものを感じました。しかも、それを小山田いく先生の住むこの小諸の地で感じるなんて。何たる偶然。

これを偶然と言うには、あまりにも都合の良いこじ付けになるのかもしれません。しかし偶然は、偶然ではないものよりも印象付ける力が大きいので、繋がりを持たせた方が、個々から受ける印象よりも、より強く心に残ると思うんです。

“偶然”を意識してみると、今まで数々の偶然により、現在の自分がある事に気付かされます。自分の知識や個性の一部を形成する趣味を一つ取ってみても、偶然がきっかけでハマったものはいくつもあります。重なった偶然がきっかけで友達になった人もいたりします。

vsljdnhssh.jpg手塚眞氏による著書「ヴィジュアル時代の発想法~直感をいかす技術」の中で、著者は「偶然をいかす事が才能であり、偶然こそが最大の発想テクニックである」と唱えています。
ただこれはタイトルにも示している通り“発想”のための本であって、自分の場合、直接クリエイティヴな事には何も活かされてるわけではないので、それとこれとを同じ“偶然”というキーワードで語るのにはあまりにも図々しく、こじ付けなのは承知ですが、少なくとも偶然を意識するきっかけにはなったので、ここでちょっと取り上げさせていただきました。

その「ヴィジュアル時代の発想法~」なのですが、この本を読み終えて間もない頃、たまたま街で手塚氏を見かけまして、その時たまたま友人に貸していたこの本を返してもらったばかりで持ち歩いていたため、運良くそこにサインをしていただく事が出来ました(決してその時、近くの本屋で買ってきたわけではありません)。何たる偶然。

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